51次 太田宿
行幸公園
本陣跡(福田家)
旧太田宿の中心にあった旧本陣は、宿場の中町の現在位置にあった。明治時代になると旧本陣には大田町役場が置かれ、町の中心的な存在であった。現在、旧本陣の面影はないが、この門は当時を忍ばせる貴重な遺構である。「旧太田宿本陣門」は、文久元年(1861年)に仁孝天皇の皇女「和宮」が十四代将軍徳川家茂に嫁ぐため、江戸に向かう時に新築されたものである。このときは、旧中山道の家並なども新築・修繕されたといわれている。この門は、一門の薬医門(本柱が門の中心線上から前方におかれている門のこと)で、両袖に半間の塀が付く、格式のある端正なつくりである。昭和の初めごろに現在の位置に移築されたと言われている。建築以来、長い年月を経て痛みが激しくなったため、平成十四年に解体修理を行った。(美濃加茂市資料より抜粋)
旧太田宿の中心にあった旧本陣は、宿場の中町の現在位置にあった。明治時代になると旧本陣には大田町役場が置かれ、町の中心的な存在であった。現在、旧本陣の面影はないが、この門は当時を忍ばせる貴重な遺構である。「旧太田宿本陣門」は、文久元年(1861年)に仁孝天皇の皇女「和宮」が十四代将軍徳川家茂に嫁ぐため、江戸に向かう時に新築されたものである。このときは、旧中山道の家並なども新築・修繕されたといわれている。この門は、一門の薬医門(本柱が門の中心線上から前方におかれている門のこと)で、両袖に半間の塀が付く、格式のある端正なつくりである。昭和の初めごろに現在の位置に移築されたと言われている。建築以来、長い年月を経て痛みが激しくなったため、平成十四年に解体修理を行った。(美濃加茂市資料より抜粋)
脇本陣跡(林家)
林家は、初代市左衛門が中山道太田宿の現在地に屋敷を構えて以来、脇本陣のほか大田村の庄屋や尾張藩勘定所の御用達も務めていた。また、質屋や味噌醤油の製造販売も営んでいた旧家である。
往時には東西二十五間の間口をもち、土蔵十棟、馬屋三棟、離れ座敷などをもつ壮大な構えであった。 主屋は、明和六年(1769年)に建築された居室部と、やや遅れて建てられた座敷部からなり、街道の南側に北面して建っている。切妻の両端には立派なうだつが設けられ、この家の権威と格式を示している。
主屋とその裏に並ぶ質蔵・借物蔵及び表門の四棟が昭和四十六年、国の重要文化財に指定された。(美濃加茂市資料から抜粋)
林家は、初代市左衛門が中山道太田宿の現在地に屋敷を構えて以来、脇本陣のほか大田村の庄屋や尾張藩勘定所の御用達も務めていた。また、質屋や味噌醤油の製造販売も営んでいた旧家である。
往時には東西二十五間の間口をもち、土蔵十棟、馬屋三棟、離れ座敷などをもつ壮大な構えであった。 主屋は、明和六年(1769年)に建築された居室部と、やや遅れて建てられた座敷部からなり、街道の南側に北面して建っている。切妻の両端には立派なうだつが設けられ、この家の権威と格式を示している。
主屋とその裏に並ぶ質蔵・借物蔵及び表門の四棟が昭和四十六年、国の重要文化財に指定された。(美濃加茂市資料から抜粋)
永楽屋
魚徳
追分道標
古井の一里塚