mizunoスポーツ
現在も残る水野仁吉(利八)の生家
明治39年4月1日(1906)仁吉は弟利三とともに
大阪市北区芝田町に開業資金150円で「水野兄弟商会」を創業した。
明治43年(1910)梅田新道に店舗を移すと同時に「美津濃商店」と改称し、
大正4年には父の名前「利八」を襲名した。
大阪市北区芝田町に開業資金150円で「水野兄弟商会」を創業した。
明治43年(1910)梅田新道に店舗を移すと同時に「美津濃商店」と改称し、
大正4年には父の名前「利八」を襲名した。
ミズノ創業者水野利八
利八は、明治 地元大垣に工場を建てるため、
同級生の安八郡大垣町の助役栗田徳次郎に相談をかけたが
用地確保が困難ということで隣接の養老で約10万坪の土地を
購入することになった。現在の養老工場である。
同級生の安八郡大垣町の助役栗田徳次郎に相談をかけたが
用地確保が困難ということで隣接の養老で約10万坪の土地を
購入することになった。現在の養老工場である。
戦時中は軍事工場(飛行機)で沢山の木を扱っていた。
終戦後、木を使って製品つくりということでラケット(ついこの前まではテニスラケットは木製でした。
フタバは当時有名 福井選手が使っていたような気がする。)、やバットを作り出した。
イチロー、松井のバットもこうやって生まれる下地ができたのである。
終戦後、木を使って製品つくりということでラケット(ついこの前まではテニスラケットは木製でした。
フタバは当時有名 福井選手が使っていたような気がする。)、やバットを作り出した。
イチロー、松井のバットもこうやって生まれる下地ができたのである。
「スポーツは陸から海から大空へ 水野利八物語」(美津濃株式会社 昭和48年3月9日発行)・
西美濃わが街11月号から
西美濃わが街11月号から